欧州屈指の美女デイジー・フォン・プレスの軌跡 (2) 「クションシュ城」

 

南西ポーランド、ヴロツワフの南に位置するヴァウブジフWałbrzych。ここにマルボルク城、ヴァヴェル城に続き、ポーランドでは3番目に大きな城があります。城の名はクションシュ城。歴史は13世紀後半にまでさかのぼることができます。世界遺産の平和教会があるシフィドニツァからも近いので、ヴロツワフ→シフィドニツァ→クションシュ城と敷地内のホテル宿泊というのがおすすめです。

今回はこの美しく、謎が多いお城をご案内したいと思います。

クションシュ城の歴史

実際に記録が残っているもっとも古い年度は1288年から91年で、シフィドニツァ・ヤヴォル公ボルコ1世がここに城を築き、その息子ボレスワフ・ロガトカ、さらにその子であるヘンリク・ポヴォジヌィが改築を施したと記録されています。
当時は、フュルステンベルク(公爵の山)と呼ばれ、チェコから現在の南ポーランドにあるシロンスク地方への交易路の国境警備の役割をはたしていました。ボルコ1世が宮廷をルヴフカからクションシュに移してから1392年まではシフィドニツァ同様に公国の要所となっていました。クションシュ城の機能をさらに充実させたのが、クラクフのカジミエシュ地区が名をあやかったカジミエシュ大王の甥ボルコ二世(Bolko Mały)でした。しかし彼には世継ぎがいないまま1368年に逝去してしまい、チェコ王カロル4世との生前の約束通り、カロル4世が公領のすべてを相続しました。チェコ王がいた時代にはフュルステンシュタイン Fürstinsteyn 、つまり公爵の石という名に変えられました。13世紀にボルコ一世スロヴィ公が数多く建てた城砦のひとつであったクションシュ城はピアスト家が所有していました。1世紀近くの歳月が流れ、1497年にチェコ王ヴウァディスワフ2世ヤギェロンチクは宰相であったヨハン・フォン・シェレンベルクに城を払い下げ、その後、1508年にヨハン・フォン・ハウグヴィッツが短い間城主となり、その翌年1509年6月に今日話題にしているホッホベルク家の先祖であるコンラート1世がクションシュ城を譲り受けたのでした。ホッホベルク公爵家は1941年にナチス・ドイツによって接収されるまでクションシュの城主としてこの一帯を領有していたのです。ホッホベルク家の時代には、18世紀初めに40年近くかけて大規模な増築工事が実施され、バロックスタイルの翼ができあがりました。その後も何度か工事をしていますが、ハンス・ハインリヒ15世が1907年から実施したものが最後の大改修となりました。そう、城のアクセントになっている塔はどのぐらいの高さだと思いますか?なんと47メートルあるんだそうですよ。

最後の公爵夫人

1891年12月にハンス・ハインリヒ15世は英国の名門貴族コンウォール=ウェスト家のマリア・テレサと結婚しました。余談になりますが彼女の兄はウィンストン・チャーチルの母親の再婚相手でした。「デイジー」という名で親しまれていた輝く美貌を持った貴婦人は、イギリスを訪れたホッホベルク公爵家の御曹司であったハンス・ハインリヒに見初められてシロンスク地方へ渡ります。数日前のブログにデイジーが住んでいたプシチナ城博物館の話を載せましたが、ホッホベルク家はクションシュ城の周辺に1万ヘクタール、南ポーランドのシロンスク地方(ドイツ名シレジア地方)に4万ヘクタールの領地、プシチナ城、プロムニツェの狩猟の館などの不動産多数と炭鉱、ティヒTychyのビール醸造所などを所有していたヨーロッパでも名立たる富裕な貴族でした。だれもがデイジーは優雅で華やかな一生を送るであろうと思っていたはずです。しかし実際には第一次世界大戦、両大戦間期、そして夫との離別やナチスの台頭を嫌悪しながら生き、第二次世界大戦の最中にひっそりと息を引き取ったというこの城の歴代のミストレスのなかでも波乱万丈の人生を送った女性として知られています。

シロンスク地方にある元公爵家の狩猟の館 現在はホテルNoma Residence。Photo: Hons084 / Wikimedia Commons, ウィキメディア・コモンズ経由で

第1次世界大戦の開戦によってクションシュ城には、傷病兵を敵味方関係なく自らの手で看護をしたというエピソードも残っていて興味深いです。またほかにもホッホベルク公爵家に関する展示も充実しています。   

戦時中、ホッホベルク家はナチスに対する抵抗の姿勢を崩さず、長男のハンス・ハインリヒ17世は英国軍、そして弟のアレクサンデルはポーランド軍でドイツと戦いました。城を接収されデイジーは最寄りの都市ヴァウブジフWałbrzychに移り、1943年にそこでひっそりと亡くなりました。その後彼女がどこに埋葬されたのかは謎でまだはっきりしていません。
第2次世界大戦のさなかには、クションシュ城にはベルリンから疎開するために送られたプロイセン王家の蔵書などが保管されていたそうです。また1943年にはナチスが秘密基地の建設に取り掛かり、ちょうど城の地下にあたる場所に約1km続く地下トンネルが掘られたこともわかっています。

クションシュ城のナチスが利用していた地下通路
クションシュ城の地下通路はミュージアムとして見学できる

この通路がどういう目的で造られたのかについては研究家からさまざまな意見が出ていますが、実際にはどうだったのかまだはっきりしていません。
戦争が終わったのちのクションシュ城は昔のエレガントな室内は見る影もなく、まるで砦のように荒々しくむき出しの壁が目立つ状態にされてしまいました。
大戦中から戦後の時代に価値あるものから調度品、美術品が盗み出されてしまった上、その後、長い間だれにも顧みられることもなく放置されていたため想像もできないほど荒れ果ててゆきました。1956年になって、やっと県が修復工事をに取り掛かり、1991年に城の管理は地元ヴァウブジフ市に移管しました。現在はポーランド南西部ドルヌィ・シロンスク地方の屈指の名所としてフェスティバルやコンサート等のイベントが開催されて多くの観光客が訪れる場所となっています。
この地方の東に位置するシロンスク地方(中心都市はカトヴィツェ)にはこの城の最後の女主人デイジーが愛したプシチナ城やプロムニツェの狩猟館など公爵家ゆかりの歴史的建造物がいくつも残っています。

クションシュ城について

公式サイトhttp://www.en.ksiaz.walbrzych.pl/

アクセス:
ワルシャワからヴロツワフまで電車で約4時間。
ヴロツワフからヴァウブジフまでローカルバスや地元の民営バスを利用して約1時間半。市バスの8番(Zamek Książ方面行き)に乗り換えて終点で下車。

おすすめ:
城の庭園は緑が美しいシーズ。ここからは城の側面が見えて、正面からとはまったく違う印象。また、少し離れたところから城を横から撮ると絵になります。

宿泊
城の敷地内にホテルが3軒あります。
Hotel Zamkowy
Przy Oslej Bramie
Hotel Ksiaz

レストラン
城の正面入り口より少し手前左側にあるレストラン・ブラマ(Brama)ではランチやティータイムを楽しめます。

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