19世紀ポーランドのユダヤ人家庭における女子教育について

ポーランドにはカジミエシュ大王が西欧で迫害を受けたユダヤ人を受け入れるなどして以来、第二次世界大戦前までは多くのユダヤ系の住民が在住していました。ポーランドに関係あるユダヤのワルシャワやクラクフ等にあったゲットー、ナチスの人種差別政策の犠牲者、またリトアニアまで逃げて杉原千畝氏のヴィザに救われた多くのユダヤ系ポーランド人の話など、戦争に関係するものがほとんどです。しかし今日はあえてそういう戦争の話題から離れ、戦前に東欧、帝政ロシア地域に住んでいたユダヤ人の女性たちはどんな教育を受けていたかについて書いてみました。

今日話題にするのは、戦前のポーランドを含む中東欧です。ドイツやフランスなどの西欧に住んで豊かな生活をしていたユダヤ系の人々に対して、このエリアに住んでいた人々は東方ユダヤ人とよばれていました。東方ユダヤ人の家庭では、女子にとって一番大事なことは女性としての責務を果たすことで、そのための準備は幼少の頃から念入りにはじめられたといわれます。
宗教には男性がかかわるものとされており、シナゴーグでの礼拝を執り行うのも聖典研究を行うのも男性の役割でしたが、娘たちも両親や家庭を通じて宗教行事を体験することである程度のかかわりをもっていました。女の子は母からヘブライ語の祈りを習い、将来家庭を取り仕切ることができるように教理の定説と宗教儀式の数々の規定を学ばなければならなかったのです。しかしそれ以上の深い知識は必要とはされていませんでした。これについては「家庭を守る」という女性の役割は神が定めたもので、その負担の大きさゆえに宗教的規定から免除されていたという考えもあります。[i]
一般にユダヤ人女性は社会の表に出ることはなく、女たちの役目は家族を世話することにありました。何よりも重要だったのは宗教上の厳しい戒律を守ること、そしてそれらを子孫に伝えてゆくことでした。また、女性が一家の生活を支える役割を背負うこともしばしばありました。自分で商店や仕立屋などを経営して、市場で商いをしたり、行商したりして逞しく生活を支えた女性も珍しくはありませんでした。その多くのケースでは男性の稼ぎはほんのわずかで、夫はユダヤ教の研究に没頭ということも多く、妻が生活を支えざるを得ない状況が生じていたからといわれます。
特に小さな町においてはこのようなことは珍しいものではなかったようでで、マルク・シャガールの母親イダ・フェガを例に挙げてみれば、商店を経営し、9人の子どもをひもじい思いをさせることなく育てたバイタリティー溢れる母はまさに典型的なユダヤ人社会の女性の生き方といえそうです。
16世紀ごろには男子が学問所で学ぶことができたのに対して、女子は学校には通えないことになっていました。そのため裕福な家の令嬢たちは家庭教師による教育を受けていました。しかし基本的に女子教育の目的は、その子が将来主婦なった時に果たさなければならない義務へに準備するということであって、学識があるかないかは評価されませんでした。19世紀初頭になると、女子に教育を受ける義務がなかったにもかかわらず初等学校に在籍していた女子も中にはいました。学校に通えたのはほんの一握りで、それもヘブライ語とイディシュ語の読み書きを学ぶために2、3年通ったに過ぎませんでした。学校に通わせることが親の経済的な大きな負担だったため、女の子にまで私立学校や寄宿制女学校で教育を受けさせることのできる家庭は少なかったのです。しかも、非ユダヤ人と共学になる費用が安い公立学校については、ユダヤ人に対する法的制限や、キリスト教徒が多数を占める学校での差別などが就学を妨げとなって、入学を決心するユダヤ人女子生徒は多くはありませんでした。このような経緯から東方ユダヤ人の娘たちは伝統的な学校制度や勉学からは広範囲にわたって締め出されたままでいたのです。

1820年、ワルシャワに公立のユダヤ人小学校がはじめて開校されましたが、これまでの伝統を守っているユダヤ人に、息子をユダヤの伝統的な初等教育機関ヘデルから公立学校に通わせるよう説得するのは容易なことではありませんでした。しかし、女子については必ずしもそうではなかったといわれています。それは女の子は伝統的・宗教的教育を受ける義務がなかったため、ユダヤ系市民にとっては、娘が公立学校で学ぶことには息子の場合よりも抵抗はなかったからと考えられています。このような理由からか、前述の公立ユダヤ人学校にはかなり高い割合で女子生徒が在学していたのです。[ii]
公立学校ではユダヤ系の女子生徒は概して成績優秀だったそうですが、ほとんどはその学校を終えると家業や家事手伝いに就いていました。しかし、だんだんと上級学校に進学する者もあらわれてきたので、19世紀後半には家庭での伝統的な役割から抜け出してゆく果敢な女性たちも現れたようである。[iii] さらに、厳格なユダヤ教の伝統のなかで育った女性のなかにも家から出て大学教育を受けたり、自分の意志で結婚相手を選んだりするケースも出てきたのがこの頃の話です。映画「愛のイェントル」で主人公のユダヤ人少女イェントルが、教育を受けるために、さらに自分の未来を自分の手で切り開くために男装して生活するというストーリーの映画があるので、こういった背景を知りながらご覧いただくとより理解が深まると思います。下の動画は英語版ですが、以前は邦訳ビデオも出ていました。

ポーランドで19世紀にユダヤ人女子教育の先駆け的役割を果たしたのは、ワルシャワ初のポーランド語のユダヤ系雑誌編集者であったダニエル・ノイフェルトDaniel Neufeldでした。彼はフランス語や英会話を最重視するような表向きの流行を追う教育ではなく、実生活に即し、日常役に立つ教育をするべきであると主張していました。また女子にも男子と同じように宗教教育を行って正確な、ゆがめられることのない宗教解釈をさせるべきであるとも考えていました。
一方ルドヴィク・ナタソンLudwik Natansonは、ユダヤ民族の将来は若人にかかっているといいながら、女子の教育についてはノオイフェルトとは正反対の見解でした。ナタソンは、女子は家庭の枠のなかで学び、家庭に留まるべきだという意見で、家庭から出て外の世界を見よと扇動する者たちの主張は自然に反すると激しく批判しました。またイツァーク・クラムシュティクIzaak Kramsztykという人物も影響力のある人でした。彼はワルシャワのラビ(ユダヤ教聖職者)学校の講師をしており、非常に封建的な考えをしている人物でした。彼の考えは、「男子のための学校は必要である。しかし女子にはヘブライ語は不要な言語であり、しかもそもそも女子がタルムード(ユダヤ教経典)を研究すること自体、タルムードの中で禁じられている」というものでした。女性にとっての教育の必要性を頭から否定したわけではないという点がナタソンとはちがいました。[iv] いくつか人名を並べましたが、当時のユダヤの知識人の間でも女子教育に関しては意見が割れてはいたのですが、 ノイフェルトが唱えたような(非ユダヤ教徒女性と同様に)ユダヤ人女子にも中等学校が作られるべきであるという理念はその後も変わらず残っていたのだそうです。
1862年にワルシャワに政府管掌の女子高等学校が開校しましたが、全女子生徒221人のうち、39人がユダヤ人女子であり、その3年前の状況と比較すると2倍に増えました。[v]  この女子学生の増加傾向はユダヤ人社会に意識の変化が徐々に現れてきたためであるといいます。1870年代になると以前と変わって、私立初等学校の女子生徒の多数はユダヤ教のハシド派(超正統派)家庭の出身者が占めるようになった。このように学校教育を受けることのできたハシド派の女性たちは、その後はユダヤとポーランド文化の橋渡しの役を果たすことになりました。「家族の中にポーランド語、ロシア語を理解し、帳簿をつけることのできる者をユダヤ人たちは必要としていたのだ」とユダヤ人歴史家ヤクプ・シャツキJakub Szackiは述べています。[vi] 時の流れによって「壁」が崩れ始めることによって、伝統的ユダヤ人ですら周囲の俗世界を無視できない状況になっていたわけです。このようなある意味で「雪融け」を経て、より多くのユダヤ系女子が学校において基礎教育を受けることができるようになり、さらに高等機関で学び、高度な専門知識を身につけて社会に出て行けるようになったのです。

今日は長く込入った文章になってしまいましたが、こういった雑学は、旅行より深いものにしてくれるかもしれません。

参考文献
[i] Heiko Haumann, Geschichte der Ostjuden(邦訳『東方ユダヤ人の歴史』平田達治訳、鳥影社、

1999年p.190)

[ii] 1830年代、平均で女子は生徒の3分の1を占めていた。1831年には71人中41人(58%)、1861年には787人中324人(41%)。

[iii] 平田上掲書p.197

[iv] Zofia Borzymińska上掲書p.152

[v]. AGAD, Sekretariat Stanu Krolestwa Polskiego (SSKP),552/1860,k.9,132.参照によるZofia Borzymińska調べ。

[vi] J.Szacki, Di Geszichte fun Jidn in Warsze, t.Ⅲ, New York 1953, p.224(. Borzymińska上掲書 脚注18参照)