ぜひ知っておきたいワジェンキ公園ショパン像の秘話

 

日曜日のワジェンキ公園では無料のピアノコンサートが開催されます。

毎年5月半ばから9月末までの日曜の12時と16時にワルシャワ市内にあるワジェンキ公園ではショパンコンサートが開催されます。
天気のいい日は輝く緑とやさしい光の中で、ショパンのピアノ曲を楽しむことができるので、夏場にワルシャワを訪れる機会があったら足を運んでみたい場所のひとつです。

このバラはポーランドで開発された品種で、Rosa Chopinといいます。

この公園のショパン像に向かって左側には淡いイエローの花びらと香りが上品なフレデリック・ショパンというバラがあります。

 さて、この大きなショパンの像はいったい誰が作ったのか、またいつからあるのかご存じでしょうか?
ショパンが生きた時代も、またショパン像を制作する話が出てきた時代もいわゆる三国分割時代のことでした。そのような時代背景と政治的思惑が交錯して、たったひとつの像が設置許可を取り付けるだけでも非常に長い時間がかかったのでした。

ショパン像の製作へ

ショパン像製作の話が浮上してきたのは1889年でした。この年はちょうどショパン没後40年ということで、それをきっかけにという像を作ろうという話だったのです。しかし、当時のポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアによる三国分割の時代であり、ワルシャワを統治していた帝政ロシア政府は、ポーランド人の愛国心を鼓舞させる作曲家ショパンは厄介でその像の設置を歓迎するはずはありませんでした。時が流れて1901年になり、ロシア皇帝ニコライ二世が、アデライダ・ボルスカというポーランド人のオペラ歌手にショパン像設置を口頭で許可しました。それによって、翌年1902年1月1日にロシア総督府からショパン像設置委員会設置の認可が下りたというわけです。

1908年にデザインの選定がコンペで行われポーランド人彫刻家ヴァツワフ・シマノフスキの案が選ばれました。当時このショパン像は現在のワルシャワ蜂起広場(Plac Powstańców Warszawy)に設置される予定だったそうです。彫刻家とデザインの選定はしたものの、ロシア政府に案が認められるための条件には帝立ペテルスブルク美術アカデミーの承認が必須になっていました。シマノフスキの案はこの美術アカデミーで没になり、ロシア国務省はアカデミーがNGというならばとショパン像設置を不認可としました。「芸術性が欠ける、とりわけ柳や水際の蛙について芸術性が欠ける」ということが不許可の理由。

このままでは暗礁に乗り上げてしまうという焦りから、建築家で文化遺産修復の専門家でもあったオスカル・ソスノフスキが、シマノフスキの原案の土台部分と池とさらに問題となった不自然なカエルの像を変更した設計を準備し、さらにシマノフスキ自身も柳の木の形に手を加えて改善案としてました。

新設計図を再提出したものの、ショパン像設置委員会がペテルスブルクに送った書類は美術アカデミーと国務省の間を行ったり来たり、相変わらず認可は下りないまま時間ばかりが費やされてゆきました。それに業を煮やした委員会はペテルスブルクに乗り込んでいき、皇帝の叔母のマリア・パヴロヴナ大公妃に面会して美術アカデミーの承認取り付けを請願し、さらにこの大公妃の力添えがあったおかげでニコライ2世はショパン像設置認可を正式に認めたといわれます。

ヴァツワフ・シマノフスキは像の完成を急ぎましたが、第1次世界大戦の勃発と同時期に鋳造を依頼したフランスの鋳物会社が倒産するなどの不運が続き、像の完成は新生ポーランド共和国が誕生してからに持ち越されることになったのでした。ショパン没後40年の年に設置の話が始まって以来、気の長くなるような過程を経てようやく1926年11月14日に除幕式の日を迎えたのでした。

第二次世界大戦とショパン像

やっと完成したショパンの像。幸か不幸か、それがわずか13年半の後に侵略者の手によって破壊の憂き目を見ることを製作者のシマノフスキは知ることなく1930年にこの世を去りました。第2次世界大戦中ポーランドを占領したナチスは1940年5月31日に像を爆破し、バーナーで金属片に刻まれて、再利用目的でドイツに送られたのでした。さらにドイツ軍はポーランド国内の美術館に保管されていたこの像のミニチュアレプリカをもことごとく破壊しました。生前シマノフスキがポズナンの博物館に寄贈した1/2サイズの木製像と石膏像も同じ運命をたどり、唯一、頭部の模型のみがヴィエルコポルスカ地方博物館の地下で保管され、無事終戦を迎えることができたそうです。

ショパン像はワルシャワ市内で破壊された最初の像ともいわれ、それはポーランド人の愛国心を煽るショパンへの憎悪のほか、総督がいたベルヴェデル宮殿からワジェンキ公園のショパン像は目と鼻の先にあったということ、また当時ドイツ第三帝国に向けて金属屑が再利用のために送られるようになったことも理由なのではと言われています。

再びショパンが戻った日

戦後、ショパン像の再建を目指して完全なレプリカ探しが始まりましたが、戦時中にあらゆる模型が壊されていたことから作業は難航しました。最後に瓦礫となっていたシマノフスキの家から1/10サイズの像が偶然発見され、それと戦前の写真や写真測量法という技術を用いて像の再建が始まりました。こうして1958年にやっとショパンはワジェンキ公園に戻ってきたのです。日曜日にショパンの曲を無料で楽しめるピアノコンサートは1959年に始まりました。毎年5月半ばから9月末まで12時と16時に開催されます。柳の下で佇むような…物憂げにも見えるようなショパンの像にまつわる歴史を知れば、ピアノの音色は一段と感慨深く感じられるかもしれません。

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